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桜の森の満開の下 坂口安吾

2009年02月06日 23:45

桜の森の満開の下【新釈】走れメロス

昭和の文豪であり幅広く活躍した無頼派の作家・坂口安吾氏が書いた「桜の森の満開の下」。
実はイメージに挙げている単行本ではなく文庫版の「堕落論」(集英社文庫)に収録されているものを読みました。
いつもは短編集でも一冊読みきり、その本のレビューを行うのですが、今回はその中の一作のみを挙げます。
と、言うもの、過去に森見登美彦氏の「【新釈】走れメロス 他四篇」を読んだ際、坂口安吾氏の同名作を題材とした「桜の森の満開の下」だけが原作未読であり、十分な感想が書けなかったためです。
(他の作品がちゃんと書けてたかはさておき)

「【新釈】走れメロス 他四篇」の感想はこちらから。

森見登美彦作「桜の森の満開の下」は、ある女性との出会いを機に男が変わり、成功を収める物語。しかし、かつて捨ててきたものの素晴らしさを思い返し、取り戻すために「今」を捨てたとき、結果全てを失う事になった空虚な物語。
彼に確固たる意思はなく、けれど郷愁に抗う術もなく、緩やかに独りに戻っていきます。

原作を読み、なるほど、と感じ入りました。
原作から読んでいれば、この物語にまた違った思い入れが出来たであろう、と。

以下、原作の感想です。


鈴鹿峠の桜の下は人の通らぬ山の静寂。住み着いた山賊は「なぜこうも怖ろしいのか」と桜の森を思いつつ、その理由を考える事を先送りにしていた。
人を殺し物を奪い暮らしていた山賊は、ある日見たことも無い美女を奪い己が嫁とした。
げに怖ろしき山賊。あらじ、真に怖ろしきはこの女。7人いた山賊の嫁を6人まで男に殺させ、峠を行く者も残らず殺させ、きらびやかな装飾品を奪わせた。山にいては退屈と都会へ出向き、男に殺させ、奪わせた。
彼女を魅了したものは首である。特に醜悪な生首が良い。嬉々として生首の人形劇を遊び、晒し、冒涜し、弄ぶ。
一方山賊は都会の暮らしには慣れぬ。女を心より愛していたが、山の懐かしさに惹かれ牽かれて帰山を試みる。
慌てたのは女。最早生首無しでは生きてはいけぬ。それを与えてくれるのは山賊の男。山なら山へ、貴方のいる場所へ、着いて行かずには居れぬと口説き、無理に同行する。
喜んだのは男。幸福の内に鈴鹿峠へ戻れば、そこは満開の桜の森の下。背に負った女は、今の今まで懐かしく語らっていたそれは、鬼へと変わっていた。
男は鬼を絞め殺した。
それから、桜の森の下は欠片も怖ろしくはなくなった。恐れの正体は「孤独になる」恐怖。しかし、女のいない山賊は既に孤独そのもの。それ以上を恐れることはない。
桜の花舞い、女の死体は消え去り、そして男も消え、山は静寂と帰る。


まず、文体を独特のもの感じました。
昭和も前半期の頃のものですから、今と文体が異なるのは当然。わたしはあまりその時代の作品というものに触れていませんので、独特と感じたのはそのせいかも知れません。
人物は淡々と書かれています。感情の起伏はあまり見られません。人間的感情に乏しいとも思えますが、語るように情景を伝えるためでもあり、淡々とした語りに空恐ろしさを覚えさせるためでもあるかのよう。
山賊は簡単に人を殺します。しかし悪びれた様子はありません。更に女が現れてからはその指示で殺していきますので、仕舞いには男が人殺しなのか女が人殺しなのか分からなくなります。

最後に山賊はその女すら殺しました。
このラストが肝です。

原作を読む前、あらすじを聞きかじった程度では、女が実は鬼であった、という怪奇物かと思っていました。しかし、読んでみると違う。
女の心には確かに悪鬼羅刹が住んでいるのでしょう。が、それはこの際置いておきます。
女を背負って懐かしの山に帰ってきた2人。女を絞め殺すその直前まで、2人は初めての出会いを懐かしく思い出し穏やかに語らっています。
山賊が出会ったものは鬼ではありません。桜の魔力です。冷たい風に吹かれ、空恐ろしくなった彼はがむしゃらに走り出します。背負われた女は落とされまいとしてしがみつき、首に回された腕にも力がこもります。混乱した頭はそれを「首を絞められた」と錯覚し、締め付ける者を鬼婆であるかのように錯視させます。
冷静になると背負っていたのはやはり女で、殺してしまった自分は取り返しのつかない過ちを犯した者で、押寄せるものは後悔と孤独と虚脱感。

読了後残るものは空虚というほかありません。感動はなく、心震えず、ただ息を吐くばかり。その胸に溜められた空気こそが名作である証。
半ば森見登美彦氏の著作に触れた勢いで原作として読んだ坂口安吾氏の作品ですが、これは読んで良かった。


そして元の主題である森見登美彦作「桜の森の満開の下」に触れていないこの体たらく。
ああ、いかんいかん。

対比するのも野暮な話ですが、坂口安吾氏の作品を基盤としているだけ合って、要点は似通っています。いかれたオマージュの「走れメロス」とは大違い(褒めてますよ)。
山賊役は4畳半で小説を書く男。美しい女役は変わらず美しい女。山賊の妻達は孤高の小説家にして大文字山に住まう天狗・斎藤秀太郎。ただし7人の妻の内1人生かした醜い女に当たる者は居ません。強いて言うなら小説か。
女は男を導きます。管理し、指示を出します。欲しがるものは煌びやかな装飾品の数々。原作ではそのうち生首を求め始めますが、貧乏暮らしであった大学生の男にそんな戯けた願いを請う訳もなく代わりに女を題材とした小説を書かせます。
そしてこの男、郷愁の念に駆られ帰郷を試み、女がそれを追ってくるところまでは同じですが、決して桜の魔力に屈することはありjません。その細く美しい首筋に手を添える事はなく、ただ静かに首を振り女を否定せしめるのみ。
原作では、山賊は女の死体についで消え去りました。それで、物語はお仕舞い。
けれど森見登美彦作品では消えません。全てを失い心は空虚になろうとも、それで消え去る命も存在もなく、生きてただ日々は過ぎていきます。
消え去る事も虚ろ、しかしながら、生き続ける事も長い永い虚ろ。
原作には虚無感と消え去る美しさが。
オマージュ作には虚無感と残り続ける寂しさが。
似たような物語の同じような轍を見ながら、もたらされるこの結果の違い。

どちらが良いとは言えません。
これらは横に並ぶ作品であり、上と下とが無いためです。
そして、合わせて読むと大変に感慨深い。

短編であるためするりと読める本作"達"。
興味を持たれた方は是非一読してみてください。





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